空耳日記

生きるための文字起こし

モノクロと質感に惹かれて

こういうものは1日1記事なのかな、と漠然と思っていたが、そのような制限にはあまり意味がないと今は思う。なにせこれはリハビリなので、枝葉末節は気にしすぎず、まずは書きたいように書き散らすことが優先だ。

 

今日は職場に立ち寄った帰り、月曜開館のところを探して写真展に寄った。

広すぎず狭すぎない丁度好いスペースのなかで、プロの写真展が2本と、アマチュアの写真コンクールが1本。某カメラメーカーが運営するギャラリーである。

プロの方は、1本は演奏中の音楽家を被写体としたモノクロ写真の展示であり、もう1本は鉄塔をテーマとした展示であった。アマチュアの方は、カラー部門とモノクロ部門に分けて、それぞれ入選作品を展示していた。つい1枚1枚の写真に没頭していると、さほど大きな展示でもないのに、2時間近くかかってしまった。

 

写真美術館の入り口で、広大な鳥取砂漠にフィギュアのように立つ人間を撮った植田正治の写真に衝撃を覚えてからというもの、私の中では、写真展に行くことが余暇の選択肢のひとつとなった。特に、モノクロ写真による光と影の表現には、カラーだとどうしてもぼやけてしまうような強いインパクトを感じる。年季の入った老人の肌に刻み込まれた深い皺のひとつひとつや、強調される人や物のシルエットなど、色という際限のない情報を削ぎ落とした後の写真であるからこそ、眼を惹きつけて離さないものがある。私自身が視覚的に情報量の多い状況が苦手だというところもあるかもしれない。モノクロ写真は、何点も見ていても不思議とあまり疲れないように思うのだ。

 

今日観たアマチュアコンクールのモノクロ部門の全体講評のことばの中にあった、「モノクロ写真はとかくクラシックな表現になりがちだが、今後はより現代らしさを切り取った作品を期待する(※記憶違いかもしれませんが)」というような一節が印象に残っている。カラーで画質のいい写真が誰でも撮れるような現代において、敢えて白黒で写真を撮ろうという人は、どこか郷愁を覚えるような画を撮りたくて、という動機あっての人が多いのかも知れない。

現代を象徴するような画、それも敢えてモノクロで写す意味のあるようなものとは、どのようなものだろうか。先日、写真美術館へ観に行った、森山大道の街かどの写真はその一例か。

自分で撮るならば、金属やガラス、木材など、モノの質感を写したい。心惹かれがちなのは、やはり昔からあるような素材やシルエットになってしまうけれど。色とりどりで美しいモスクのターコイズブルーやグリーンのタイルなども、モノクロで撮ると、表面のざらざら、つるつるとした触感を感じさせるようなものになるかもしれない。

 

こうした展示に行くと常々思うことだが、空いているギャラリー(※急かされない、周囲との距離を気にしなくて良いということが非常に重要)で、心惹かれる写真や絵、陶器などを眺めながら、自分のペースでその世界に没頭できるひとときが、純粋に幸せだと感じる。中世ヨーロッパの絵みたいに、神話やキリスト教等の含意や、描かれた人物の感情などを想像することなく、ただただその作品が表現する人や物の凸凹などの質感(日本画に用いられる顔料はこれまた質感を愉しむのにもってこい)や色彩の美しさ、シルエットのインパクトなどにひたすら感覚を委ね、作者によるその構図やデザインの意図を想像したり、面白がったり、時には場違いでありながらも笑みをこぼしたりする、そんなひとときである。

この歳になってようやく気付いたけれど、おそらくは、演劇や映画より、自分には向いている趣味だと思う。少なくとも、鑑賞の対象としては。