空耳日記

生きるための文字起こし

女が愛し合う話が好き

仕事をしていた時は、小説を読むのをすっかり後回しにしていたのだが、休職してからというもの、既に4、5作を読了した。小説以外の、例えば実用書だとか、哲学の本なども並行して読んでいる。人生でこんなに本を読みまくる時期は、もうなかなか訪れないかもしれない。

私は、純愛をテーマにした作品が好きだ。女同士の話だと何度も読み返してしまうくらい。その中毒性ときたらまるでポルノ・・・いや、はたまた、ビターチョコと深煎りコーヒーの組み合わせのような。男女の恋愛がテーマの時は、たいてい男視点で楽しんでしまう。

 

キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

 

 

 

生のみ生のままで 上 (集英社文芸単行本)

生のみ生のままで 上 (集英社文芸単行本)

 

「当事者」の立場としては、女性同士の恋愛やそれを取り巻く諸々の描写に対して、リアリティを求めたくなってしまう。それゆえ、ちょっとした表現のなかに、つい違和感を覚えては、そこで立ち止まってしまうのだ。性のあり方も色数に際限のないレインボーなのに、つい「当事者とはこういうものじゃないか」という自分や自分の知っている世界だけを当てはめる、ということをしてしまっているように思う。「発達障害」「LGBT」が大雑把な括りだというのは言うまでもなく、「レズビアン」「自閉症スペクトラム」などと一見定義がはっきりしていそうなものであっても、特定のものを一方的に括りつけることはできないのだと思う。

(ちなみに、「キャロル」で私が最も共感を覚えたことは、作者(ハイスミス)が主人公のようにデパートで働いていた時に美しい女性と邂逅した時に閃きを得て、一気に本作のプロットを書き上げてしまったという点である・・・)

 

私は、夫を愛しているし、ときに裸で交わることもある一方で、人生の大半は女性を想って生きてきた。心惹かれた女性と語り合い、精神的・物理的に距離をつめて、ベッドで求め合うことを人知れず夢想する人生だった。それは子供の頃からで、きっとこれから先も死ぬまで続く。女性同士が愛し合うストーリーが大好きで、二度読み三度読みして、そこからまたインスピレーションをもらい、自分でも女性同士の話を紡ぎ出す。ときどき、男女のポルノを見て、自分もこの男のようにきれいなひとに誘惑されたいな、導かれたいな、などと思いながら。
自分の心は、自分だけのものだ。自分が「レズビアン」なのか「バイセクシャル」なのかを、ふだん人に説明する機会などそうそうないが、どちらかの言葉を使って言い切ろうとしたり、カテゴライズされるのは心に澱が残ることを知っている。本当は、そういう言葉はきっと、自分を理解し、説明するためのひとつの基準であるだけでいいのだと思う。

 

そして、孤独でもある。
ひとに共感することが苦手なくせに、本質的には他人に深い関心がないくせに、そんな自分でも、時には共感を求めてしまうことがある。だけど、それは例え「当事者」のなかでも、求めにくい共感だなと分かっている。どこかに所属感を求めることはもう期待していないから、せめて緩い繋がりがあればいい、と思う。

そんな私が描く話は、多分共感を得られないから、まさに私自身のための話なんだろうな。