空耳日記

生きるための文字起こし

「自由」に絵を観る愉しさ

普段、絵といえば近代の日本画や、浮世絵などを好んで見にいくことが多い。例えば浮世絵であれば、描かれた世界の中に垣間見える当時の町並みや生活ぶりであったり、遊女のファッションセンスであったり、ベロ藍の美しさであったり。。我が国特有の画材の彩りの美しさや絵の技巧に心を揺さぶられたり、描かれた人々や町並みのちょっとした特徴を目で追ったりと、描かれている対象を、細部までありのまま観察するような楽しみ方をしている。

ところが、これがいわゆる現代アートとなると、絵の見方が、楽しみ方が分からなくて、大抵消化不良に終わってしまう。時系列を追うような展覧会に行くと、大抵後半の方はスルーする作品が増えてしまう。

自らも演劇というアートに携わる側であった学生の頃は、清澄白河の現代美術館などにたまに足を運び、現代美術を理解できるようになりたいと願っていたが、理解の範疇を越えるそれらのアートに対し、現在では「理解できないから」と前を通り過ぎてしまう自分がいた。

そんな、自分にとってはほぼ食わず嫌いに近い存在である現代アートについて、少しでも取っ掛かりになるヒントがあればと思い、手に取った本がある。

 

現代アート、超入門! (集英社新書 484F)

現代アート、超入門! (集英社新書 484F)

  • 作者:藤田 令伊
  • 発売日: 2009/03/17
  • メディア: 新書
 

 「現代アートの謎解き、鑑賞ノウハウ、ものの見事に、わかります!」

帯に並ぶ言葉はいささか強調が過ぎるかなと思うけれど、この本が私にとって、現代アートに向き合う上での敷居をぐっと下げてくれたことは確かである。以下、読後に考えたことを記す。

 

現代アート以前の西洋美術は、絵はいかに現実を美しく、写実的に描くか、ということを目指したものであり、鑑賞する側の観点も、絵の美しさや写実性といったものを基準としていたが、現代アートはそうした従来の美術のあり方への挑戦といえるのではないか。色彩を、目に見えるものを描写するだけでなく、色彩そのものの印象を利用して、目に見えない感情や人の内面などを表現する手段として利用したり、滑らかな曲線で描かれることの多いヌードを、図形的な要素を用いて、多方向からの視点を用いて描写したりと、当時の画家たちの実験的な姿勢が感じられた。

・一部の作品には、「絵とはかくあるべき」以前に、「アートとはかくあるべき」という基準自体を問うような衝撃を与えるものがある。それ等の作品の出会いを通じて、私の中では、「この絵に意味は存在するのか?何を伝えようとしているのか?」「こんなものが絵(アート)といえるのか?」「アートだからと言って何を表現しても社会的に許されるものなのか?」という、時には混乱や憤りのような感情が生まれた。しかしそれは同時に、「そもそも、画家たちは果たしてこれらの作品に意味やメッセージ性を込めているのだろうか?」「アートとはそもそも何を指してアートといえるのか。特定の人々に負の感情を抱かせるような作品であっても、そこに明確な意図があれば、社会的には許容されなくてもアートなのかもしれない。。。」などと、自分自身の芸術観に対する根本的な問いや思索に発展した。

 

私はこの著者の本を何冊か手に取ってきたが、いずれの本からも、共通して感じたスタンスは次のようなものである。

 

アートとはこうでなければならない、アートはこう鑑賞しなければならないというものはないし、各々が「面白いな」と思うものを、感じるまま、心惹かれるままに鑑賞したっていい。だけど、ただ見たままを感じるだけでなく、作品の生まれた背景などを理解したり、鑑賞の仕方のバリエーションが増えれば、もっとアートを楽しむことができる・・・と。

 

アートの捉え方や見方は個人の自由、とはいえ、絵を観ることに慣れていない者に対しては混乱を生じる。(日本の義務教育でも、絵の鑑賞の仕方というのはあまり教わらないように思う)このような本の意義は、まさに、絵を鑑賞することに慣れていない人間に対して、美術館の敷居を下げ、絵を観ることへの固定観念を取り払いながら、色々な楽しみ方を教えてくれるところにあるのだと思う。

ただ、私としてはやはり、抽象的なアート作品などを見ると、作者の意図を知りたいな、と思ってしまうし、それを知らないまま、まず作品と相対して何かを感じ取ろうとしてもうまく感じることもできず、結局通り過ぎるのも勿体ない気がしてしまう。少数の作品とじっくり向き合いつつ、作品が生まれた経緯や過程について、作者と語り合えるような場があったら、より現代アートとの距離が近づくように思う。